アート
「不識、喫茶去」
日本美術について
原三渓の美術収集
2019-09-30
少し前になってしまいますが、横浜美術館の「原三渓の美術」展を見てきました。
かつては原氏がコレクションしたものであったけれど、その後散逸したものを、あらためて集めて展示するという面白い企画の展示です。また、横浜という土地にとって、原氏の功績は大きなものであったと知り、横浜美術館がこの企画を行うということには単純な美術展とは別の意義もあるのだと感じました。
「原三渓の美術」展チラシ
さて、明治以降、まあ財閥と言えばそれまでなのですが、鉄鋼にしろ生糸にしろ外国貿易などで大きな事業を成し遂げた人々の日本国家への貢献は大きなものでしたし、同時に、そういう方たちが、日本の伝統美術工芸に関心を抱いて、純粋な美術愛であるかどうかはともかく、貢献をしてきたことも忘れてはならないわけです。
一方で、実際のところ、財閥系の人たちが日本の美術工芸品を買いあさって、やがて没落し美術品は散逸していくというドラマのようなことが、その時期普通に起こっていたわけです。
僕が、そういった収集と散逸の流れに最初に少し関心を持ったのは、光悦+宗達の「鹿下絵和歌巻」をサントリー美術館で見たときでした。
前の記事でも書きました
が、きれいに修復されたその長大な作品は、全巻の約半分をアメリカのシアトル美術館が所蔵しています。残りの半分は日本にあるものの、茶道家たちによって断簡として断ち切られ、実質的に一巻であったものが散逸しています(美術館としては山種やMOAやサントリーにあります)。
戦後、シアトル美術館の当時副館長シャーマン・リーの働きで「益田家」から、これを買い上げました。おかげで、この半分はまるごと美しく保存されたという話です。
しかし、その「益田家」とは何なのか?「鹿下絵和歌巻」の話を知った時点では、近代史に疎い僕は実は知りませんでした。
ウィキペディアによれば江戸時代から数々の事業を行ってきた三井財閥を明治から昭和期にかけて支えた実業家益田孝氏(旧三井物産の初代社長)のことであることがわかります。そして、かいつまんで言えば、益田孝氏が美術品を収集を主に進めたのですが、その死後に第二次大戦敗戦で財閥解体を目的とする財産税を課せられるなどあり、子孫たちは美術品の多くを手放さざるを得なくなったという経緯のようです。
つまり、益田家について言えば第二次大戦敗戦によって収集品を手放すことになったわけです。では原三渓の場合は、手放すきっかけは何だったのか。この美術展の図録などによると、関東大震災ということです。関東大震災により横浜も壊滅的な状況となり、原氏は横浜復興のために尽力し、そのため震災以降は美術品の収集はあきらめざるをえなかったとのことです。
先に悲しい話を書きましたが、それとは真逆の時期、原氏が熱心に美術収集していた時期の話を読むと、そのコントラストに愕然とします。その辺の経緯は図録の論文でも知ることができますが、
『幻の五大美術館と明治の実業家たち』(祥伝社新書/中野明/2018年)
は、筆者の幅広い文献研究のうえで、やや憶測も交えて物語られていてとても面白いです。
原が美術品収集家として一躍その名を馳せるのは、1903年(明治36年)のことである、ほかでもない、前章で述べた井上馨から仏画の一品「孔雀明王像」を1万円で譲り受けた一件のよってである。(『幻の五大美術館と明治の実業家たち』第2章)
原氏はこの時35歳という若さで、当時の1万円というのは、現代の金に換算して1億円だそうです。上の引用で「前章で述べた」という部分も引用すると、このころの人間模様が見えてきます。
井上はこの「孔雀明王像」を売却してでも、某氏が所蔵する古仏画「虚空蔵菩薩像」をどうしても手に入れたいと考えていた。そこで井上は箒庵こと高橋義雄に、「孔雀明王像」を一万円で買う人物がいないか打診したのである。(前掲書 第1章)
そして、
高橋は三井での先輩でもあり茶敵でもある益田にこの話をした。[…略…]1万円とはかなり高い。益田は高橋にこのような意味のことを言ったという。
「まず原にこれを示せばよかろう。それでも原が購入しないならば、井上候に幾分の減額をお願いして、私は引き取ることにしよう」[…略…]
おそらく益田はさすがの原もこの幅に1万円を出すことはなかろう、と踏んだのだろう。(前掲書 第1章)
ここで前述の益田孝氏が登場しました。著者の中野氏はこの本の中で、益田氏のしたたかさについて何度か言及しており、この場面でも、値切る算段で原氏の名前を出したとしています。ところが、井上の思惑に反して原氏はこれを購入してしまったという話です。著者はあくまで、この値切りの件は自身の「推測」だとしていますが、面白い話です。
著者は、この高橋義雄氏が『箒のあと』という著書で、「孔雀明王像」のことを以下のように書いているのを引用しています。ここでそれも引用したいと思います。
— — この仏画の彩色は、全て鉱物の粉末を使用して居るから、夜分になって電灯に映ずれば、五彩燦爛人目を眩して、其荘厳美麗なる事、此の世とも思われぬ程であったので、私は自家所蔵品の総てを売り払って、この一幅を所持しやうかと考えても見たが、井上候に対する思惑もあり、且商家使用人の微分として、余りに僭上の沙汰だと思ひ直して、到頭原氏を勧誘し。井上候の希望通り一万円にて買収せしむる事とした — — 『箒のあと(上)』高橋義雄
「孔雀明王像」の魅力だけでなく本人を含む人間関係がわかる興味深い文章です。
そして、その「孔雀明王像」を今回の美術展で見ることができました。高橋氏の言うところの「夜分になって電灯に映ずれば、五彩燦爛人目を眩して」とは截り金のことでしょう。
孔雀明王がつけている装飾品の金色も素晴らしいですが、着衣に施されている細い截り金の模様は、実際、電灯の光などを動かしながら見るときらめきが美しいだろうとわかります。
今、我々が、その精緻な技巧をじっくり鑑賞できるとは、なんと幸せな時代に生まれたものだと思います。
原三渓については、NHKの日曜美術館でもこの展覧会とともに紹介されていました。三渓園を作って無料公開したことや美術館の構想、「三渓帖」の構想、その地を一種のサロンとし、横山大観や下村観山らを支援したこと、そして自身も日本画を描いたことなど、実業家としてだけでなく多くの魅力のある人物であったのだと知ることができました。
原三渓の美術収集
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NHK「第2回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ-その2
2019-02-09
2019年2月に放送されたNHKの「第2回 江戸あばんぎゃるど — ガラスを脱いだ日本美術」の私的まとめです。
第1回の「アメリカ人が愛した日本美術」の私的まとめ
の続きで、第2回のその2です。
番組の多分ハイライト的なシーンのひとつである京都嵯峨嵐山の二尊院の畳の部屋での円山応挙の「鳥図屏風」の映像。その朝から夜までの時間経過を映し出した後、映像はニューヨークへ飛び、美術商のレントン・ロンギ氏が登場した。
レイトン・ロンギ
ネットで調べると、ロンギ氏は
ニューヨークのJADA(The Japanese Art Dealers Association)
という日本美術商やギャラリーのための非営利団体のDirectorの1人らしく、JADAのサイトには
昨年(2018年)のAsia Weekでの展示品の紹介
や
展示会の様子
が載っていて、こんな楽しそうなものがあるなら是非ニューヨークに行ってみたいと思わせるものがある。
しかし、このサイトは上記記事掲載以降は更新されていないようだ。今年はAsia Weekは3月13日からなのだが、Asia Weekサイトを見てもJADAという名前は見えないなど、もしかすると今は活動していないのかもしれない。よくわからない。
さて、番組では、最初にロンギ氏が微笑みながら手に持っていたカタログに雲龍図の写真があった。ロンギ氏が見せているのは北野天満宮所蔵の海北友松「雲龍図屏風」で、2017年の京都国立博物館の「海北友松」展での、おそらくだが、図録本の232〜233ページだと思われる(もしくは外国人向けの別刷り?ページでの配置が酷似している)。海北友松という作家を番組スタッフに説明するために参考で見せていたのだろうか。
2017年京都国立博物館「海北友松」展のチラシと図録
そして、ロンギ氏は探幽の屏風や、ロンドンのギャラリーで見つけたという海北友松の「龍虎図屏風」を見せた後、長沢蘆雪の「月夜山水図」の前に立って「印象派的である」というようなことを話したている。その時、この絵を私はどこかで見たことがあるような気がした。
実際は、別の絵だったのだが、よく似ている芦雪の絵を前に見ていたのだ。それは、2017年の愛知美術館での「長沢蘆雪」展に展示された公益財団法人頴川(えいかわ)美術館所蔵の「月夜山水図」だった。展覧会のチラシの裏面の左下に、この絵の図版が掲載されているので見覚えがあったのだ。繰り返し用いられているモチーフだとわかる。
2017年愛知美術館での「長沢蘆雪」展チラシと図録、右はチラシの裏面で左下に「月夜山水図」
そして次に登場した柴田是真の「鯉の滝登り図」も、またもや見たことがある気がしたが、これも別の絵だった。この場合は、実際は実物を見たのではなく、
榊原悟著『日本絵画の遊び』(1998年刊,岩波新書)
という本の中だった。著者が紹介しているのは野村美術館所蔵の柴田是真作「滝に登鯉図」で、こちらも「描き表装」の掛け軸である。
本にはモノクロの図版が掲載されていて、見ると鯉が水流で滝の外に弾き飛ばされて、もんどり打っている。ロンギ氏の鯉は虫に気を取られて滝から飛び出してしまっているし、どちらも「結局登れていない登鯉」の絵なのだなあと思うと面白い。
ガラス越しでなく絵を見るというのは、いくつかの展覧会でも試みられることがあるので、体験する機会はあるかもしれないが、リビングや和室に置いて間近に見るというのは、個人コレクターか美術商、またはこの番組のようなテレビ局の企画担当者でもない限り難しいのかもしれない。
しかし、例えば京都の祇園祭での「屏風飾り(屏風祭)」などもある。「屏風飾り」というのは、祇園祭の時期になると、京都で古い美術品や調度品などを秘蔵しているお家が、祭の見物に来ている人たちに外から見える範囲でそれらを披露するという一種の風習なのだが、いくつかの家では、有料の場合もあるが、座敷に上がって見せてもらえることがあるのだ。夜の座敷で屏風を見る機会を味わえる場合もある。
京都祇園祭における「屏風飾り」杉本家、俵屋宗達「秋草屏風」室礼(しつらい)
まとめは以上です。
NHK「第2回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ-その2
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NHK「第2回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ-その1
2019-02-08
2019年2月に放送されたNHKの「第2回 江戸あばんぎゃるど — ガラスを脱いだ日本美術」の私的まとめです。
第1回の「アメリカ人が愛した日本美術」の私的まとめ
の続きです。
第2回「 ガラスを脱いだ日本美術」では、タイトルどおり、ガラス越しではなくリビングや和室で目の前においた作品を、一日の時間の経過の中で鑑賞すること、その価値を見いだすのが番組の主題だった。私は、ディレクターであるホークランド氏がニューヨークの コレクターであるウェバー氏のリビングで土佐光起の「吉野桜図」を見た瞬間が、その主題のきっかけとなったのではないかと勝手に想像したりした。
というのも、実際、「吉野桜図」をカメラ・ドリーを使ってパンする映像は、番組で何度も挿入され、私にもその映像は部分的に浮き出して見えてスゴイと思ったからだ。でも一方で、見ているのはテレビ画面という二次元の映像なのだから、これは実際にそこに居て見るのとはまた別の3Dの感動ということで…ホークランド氏は映像作家としてむしろそこに面白味を見いだしたのかとも…などとも思えたのだ。
さて、前回の番組の第1回は、主にアメリカの美術館に貢献したアメリカ人たちの話だったが、第2回の今回は個人コレクターと美術商がフォーカスされた。まさにガラス越しでないリビングで日本美術を楽しむアメリカ人たちだ。
ジョン・C・ウェバー (個人コレクター)
レイトン・ロンギ (美術商)
アレクシー・ショール(個人コレクター)
ジョン・C・ウェバー
私は単なる趣味の人なので評価はよくわからないが、番組で紹介されていた氏の土佐光起の「吉野桜図」も「 源氏物語屏風」はいずれもとんでもなく素晴らしいと思った。また 山崎如流、 甫雪等禅、 金渓道人といった名前は全てはじめて知った。
そんな中、氏の所有する「鯉」と題する円山応挙の絵が紹介されていた。鯉が滝をまっすぐに登る姿が描かれ、それも滝の水の線に隠れて縦のストライプのように鯉が垣間見えている面白い絵である。
番組のテロップにはタイトルが「鯉」と表示されている。しかし、これは実際には「龍門鯉魚図」または「龍門図」と呼ばれるものではないだろうか?もしそうなら二幅または三幅で構成されるはずで、これとセットになっている絵もどこかにあることになる。といっても、それは単なる私の憶測で、憶測の理由はこうである。
応挙の「龍門図」は、同じ題材のものを日本では大乗寺と京都国立博物館が持っていて、それぞれ展示されていたのを見たことがあるのだ。
ひとつは2013年に愛知県立美術館で行われた「應挙」展で、ここでは大乗寺所蔵の「龍門鯉魚図」が展示されていた。これは二幅で構成され、ウェバー氏の「鯉」と同じく滝の流れの中に垣間見える鯉の図を右幅にして、一方別の左幅には静かな水中に泳ぐ鯉を水平的に描いているものだった。
2013年愛知県美術館「應挙」展チラシと超しぶい表紙の同図録
もうひとつは、2016年の根津美術館での「円山応挙」展での、京都国立博物館所蔵の「龍門図」の展示である。こちらは三幅で構成されていて、中幅が滝登りの図で、左右幅は両幅ともにやはり穏やかな水を泳ぐ鯉が描かれている。面白いのは、この展覧会の図録の解説に書かれているのだが、この右幅の鯉は、大乗寺の左幅の鯉と同じ絵柄の鯉であるということ。左右反転しているものの、同じ下絵を使っていると解説にはある。この二つの図録を持っているなら較べてみると面白いと思う。
2016年根津美術館「円山応挙」展のチラシと図録
2016年根津美術館の出品リストは図入りでお得感あり。左下に「龍門図」中幅の図
インターネットで調べると、
2015年にMIHO MUSIUMでジョン・C・ウェバー氏のコレクション展
が行われたらしい。残念ながら、関心の外だったのか隣の県なのに見に行っていない。再度、氏のコレクション展が日本で企画されることを期待したい。その時は是非とも「吉野桜図」を公開していただきたいと願う。
続く
NHK「第2回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ-その1
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NHK「第1回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ -その3
2019-01-29
2019年1月に放送されたNHKの「第1回 江戸あばんぎゃるど」の私的まとめの続きの最後、その3です。
5. ハリー・パッカード
番組では、田島充さんという美術商の方がご自身の思い出を話されていた。「 シャーマン・リーは強引だった」と言われるとともに、パッカードについては、パートナーとしてアメリカでビジネスをしたにもかかわらず、お金の問題で決別したともおっしゃっていた。当時のアメリカに対する日本人の立場などが推察される。
パッカード・コレクションのあるメトロポリタン美術館といえば、琳派好きの私などは尾形光琳の「八橋図屏風」や鈴木其一の「朝顔図屏風」 が想起されるが、調べてみると、これらは当然ながらパッカード・コレクションではない。光琳の「八橋図屏風」は1953年のアラン・プリースト東洋部長によるものらしい(根津美術館2012年Korin展図録村瀬実恵子氏巻頭論文)し、其一の「朝顔図屏風」は1954年購入らしい(2016–2017年鈴木其一展図録ジョン・T・カーペンター氏論文)ので多分同じプリースト氏によるものと思われる。つまりこれらは、この番組でもひとつの論点だった戦後のいわば一連の流出期にアメリカへ行ってしまったものたちと見ていいだろう。
では404点に及ぶというメトロポリタン美術館のパッカード・コレクションで私が見ることができたもの(つまり展覧会で日本にきたもの)はなにがあったのだろうかと思って振り返ってみた。
まずは、なんと言っても映画「インセプション」にも登場したという(もちろん映画ではレプリカだろうが)狩野山雪の「老梅図襖」がある。これは2013年4月、5月に京都国立博物館で開催されていた「狩野山楽・山雪」展で見ることができた。豪華で楽しい感じの展覧会のパンフレット(全4ページ)があって、その最後のページでもこの絵を大々的にフューチャーしている。
2013年京都国立博物館「狩野山楽・山雪」パンフレットとチケット
2013年京都国立博物館「狩野山楽・山雪」パンフレットの「老梅図襖」と「群仙図襖」
2013年京都国立博物館「狩野山楽・山雪」パンフレットの楽しい感じの見開き
展覧会では、襖の反対面にあたるミネアポリス美術館所蔵の「群仙図襖」とあわせて、二面をあわせて元の襖の形で展示されていて、パンフレットには、これを「展覧会がもたらす奇跡」とまで書いている。番組では、パッカードはこの二面の襖を買った値段で、片面の「群仙図襖」だけを売ったので、「老梅図襖」のほうは丸儲けにしてしまったのだと紹介していた。
閑話休題だが、「群仙図襖」はミネアポリス美術館所蔵だから、これをパッカードから買ったのはもしやメアリー・バーク?などと勘ぐってみたが、美術館サイトで検索して「群仙図襖」の詳細を見るとTHE PUTNAM DANA MCMILLAN FUNDという財団名がある。この財団についてはよくわからないが、やはりそれはないのだろう。
その他で、パッカードのコレクションを見たのは2016年にサントリー美術館で開催された「鈴木其一」展での「文政三年諸家寄合描図」くらいだろうか。
なお、パッカードには
『日本美術蒐集記』
(1993年新潮社)という著書があるらしいが今は絶版になっている。アマゾンなどでみると訳者名がないので本人が日本語で書いたのだろうか。さすがである。京都の
天香堂という古美術店がホームページで短い要約
記事を書かれていて読むとわりと興味深そう。
今度の古本まつり
で探してみようと思う。
6. メアリー・グリッグス・バーク
2016年の東京都美術館での生誕300年記念「若冲」展は、本当に大盛況で日本経済新聞の記事によると「31日間の会期中の入場者数は約44万6千人を記録」で「(1日の)平均入場者数も同約1万4千人で、同館の展覧会としてはいずれも過去最高だった」とある。
バークコレクションの「月梅図」が展示された2016年東京都美術館「若冲」展
この展覧会では「米国収集家が愛した若冲」と題する区画があって、その殆どはエツコ&ジョー・プライス・コレクションだったが、先頭を切っていたのはメトロポリタン美術館のバーク・コレクションであり、番組でも映像に出ていた「月梅図」だった。
このバークの「月梅図」が若冲展において展示されたのは、この若冲展の目玉である「動植彩絵」の「梅花皓月図」と同じ構図なので、同じ下絵を用いていると考えられるからのようだ。
この図録の作品解説の「月梅図」の項には、上記二つの作品の比較が解説されているだけでなく、バーク夫人の来歴もかかれている。それによるとバーク夫人はアメリカの名門グリッグス家とリヴァイングストン家の血をひく上流階級出身で、コロンビア大学で美術を専攻、1954年に来日して各地を巡り、翌年にジャクソン・バーク氏と結婚、以後50年以上に及び夫婦で日本美術を収集したとある。メトロポリタン美術館への寄贈は夫人の没後で2015年のことだそうだ。
ところで、これも閑話休題だが、この図録の論文では、「月梅図」の所蔵を「旧バーク・コレクション」と「旧」を付けて呼んでいる。これは、バーク夫人から寄贈されたものを指し、それ以降のものと分けているということなのだろうか。わからない。ただ、わからないし、それとは関係ないのだが、番組でやっていた、パッカードは自分が売ったコレクションにメトロポリタン美術館が「パッカード・コレクション」という名を冠するなら半額にすると言ったという話だったのが妙に想起された。
「若冲」展以外では、2016年のサントリー美術館での「鈴木其一」展でメトロポリタン美術館のバーク・コレクションを見ることができた。「花菖蒲に蛾図」は、琳派らしからぬ精密さと、それ以上に、経年によるものなのかもしれないが、その色合いが独特で個人的にはすごく印象的な作品だったことを覚えている。
2016年サントリー美術館「鈴木其一」展の二種類のチラシと美術館ニュース
「鈴木其一」展図録のジョン・T・カーペンター氏論文によるとバーク財団が「花菖蒲に蛾図」を入手したのは2015年だとある。つまりバーク夫人が亡くなったあともバーク財団は日本美術を収集しつづけているということか。しかもメトロポリタン美術館の中で?よくわからないが、いつかわかったらこの記事を更新しよう。
まとめは以上です。
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NHK「第1回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ -その2
2019-01-23
2019年1月に放送されたNHKの「第1回 江戸あばんぎゃるど」の私的まとめの続きです。
3. エイブリー・ブランデージ
1941年、日本がアメリカに宣戦布告しアメリカにある日本資産は凍結された。翌年、米政府が美術商山中商会から没収した美術品を、競売でいわばたたき売りされたものを、シカゴの富豪ビジネスマンでIOC会長も務めたブランデージが買い集めたという話で、これだけ聞くとなんともやりきれない感じだが、逆に散逸を防いだともされていると番組では紹介されていた。番組でアジア美術館の学芸員の方が、ブランデージは根付け収集からはじまり30年以上収集を続けたと言っていることや、戦時中も山中商会のスタッフと交流を続けたなどもあり、確かに日本美術への愛情があった人なのだろう。
コレクションは今はサンフランシスコのAsian Art Museumにある。ウィキペディアによると、あまりの点数の多さに行き場がなく、サンフランシスコ市自体に寄贈したのだそうだ。そして、サンフランシスコ市がこのコレクションのためにアジア美術館を建設したのだという。
ところで、私は2016年6月にサンフランシスコで行われたWWDC2016というアップル社の開発者向けカンファレンスに参加したのだが、その基調講演会場であったビル・グラハム公会堂はまさにアジア美術館の隣と言っていいくらい近くだったので、立ち寄ることができた。
サンフランシスコ アジア美術館(この日は台北の国立故宮博物院の企画展開催中)撮影:筆者
茶室のしつらえもある 撮影:筆者
日本展示室では柴田是真の漆絵画帳が展示されていた 撮影:筆者
パネルには漆器の材料や製造工程、環境などが説明されている
この日は、台北の国立故宮博物院の企画展開催中だったが、常設の日本部屋では漆器(Japanese Lacquerware)を特集していた。それで、柴田是真などが展示にだされていたようだ。
日本美術の企画展の図録など(他の美術館のもの?)も展示されていた。
日本美術の企画展のものらしき図録が展示されていた 撮影:筆者
館内の案内パンフレット、右はミュージアムショップで買った絵はがきとレターセット(左上は狩野祐雪(元信の子)?、右上 柴田是真、下は山本梅逸)
4. シャーマン・リー
「鹿下絵和歌巻」は、日本では後の茶道文化において長い巻物を短く切って断簡にしていたため日本国内であちこちに散逸してしまった。一方、全長22メートルの半分近くの9メートルをそのままシャーマン・リーは入手している。そのようなシアトル美術館時代のリーの活躍は瞠目に値するが、クリーブランド美術館においてシャーマン・リーが館長として収集した日本美術も興味深い。
日本では、2014年1月から2月にかけて東京国立博物館で「クリーブランド美術館展」があった。
クリーブランド美術館展リーフレットと目録
クリーブランド美術館展の図録
図録には、クリーブランド美術館の1,950点の日本美術コレクションはハワード・ホリスと、このシャーマン・リーの2人の館長時代にとりわけ充実したものになったとある。
番組では、戦後の荒廃の復興のために日本政府が財産税を上げ、困窮した資産家や寺社などが資産である美術品を手放すことになった経緯が説明されていた。
そして番組では、進駐軍時代のコネクションでシャーマン・リーは美術品を入手できたと紹介されていたが、この図録の松嶋雅人氏(東京国立博物館)の論文には、シャーマン・リーはGHQに設けられた民間情報教育局美術記念物課(Monuments, Fine Atrs and Archives)で美術顧問官を勤め、いわば文化的側面から調査研究していた下地があったことが書かれている。つまり、他のアメリカ収集家は視覚的美しさや西洋から見たもの珍しさで選んでいたのに対し、リーは日本の社会や文化に即して収集を進めているということらしいのだ。だから、クリーブランド美術館の日本美術コレクションは日本の歴史的文脈を見通すことができるコレクションになっているのだという。どういう歴史的文脈であるかは、氏の論文の前半で述べられているが、ここでは割愛する。
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NHK「江戸あばんぎゃるど(前編)」私的まとめ -その1
2019-01-19
NHK「第1回 江戸あばんぎゃるど」私的まとめ -その1
2019年1月に放送されたNHKの「第1回 江戸あばんぎゃるど」の私的まとめです。何回かに分けてアップします。
番組では戦前戦後のアメリカ人の日本美術コレクター6人が紹介されていました。以下の6人でした。
リチャード・フラー
チャールズ・フリーア
エイブリー・ブランデージ
シャーマン・リー
ハリー・パッカード
メアリー・グリッグス・バーグ
若冲コレクションで有名なジョー・プライスやカート・ギッターといった個人収集家ではなくアメリカの美術館所蔵品に貢献した人たちを中心に紹介、ということでしょうか。
1. リチャード・フラー
番組では触れられていなかったが、フラーの日本美術収集のきっかけには、以下のような有名な話がある。1919年にフラー一家はアジア旅行への途上、日本の日光に立ち寄った。ここでリチャードが虫垂炎になってしまい、いくつかの理由で旅館の中で手術を行った。ところが、麻酔か何かの薬が腐って(?)いて病状は悪化し、家族共々3ヶ月間日光で過ごすことになった。その間に、一家は日本の工芸品などを収集し、日本美術をよく知ることになった。
シアトル美術館は1933年設立なので、これはそれ以前の話ということになる。
日本ではシアトル美術館の所蔵品展は2009年に巡回して行われている。僕はサントリー美術館と神戸市博物館に見に行っているのだが、サントリー美術館で始めて「鹿下絵和歌巻」を見て、その美しさ(修繕の美しさを含め)と躍動感にとても感動したことを覚えている。
サントリー美術館と神戸市博物館のチラシ
「鹿下絵和歌巻」といえば、当時は
シアトル美術館のWebサイト
で、全図スクロールして見ることができた。これは、マイクロソフト社の教育チームの無償協力によるものらしく、それも当時の館長がゲイツと姻戚関係があったためらしい。残念ながら、今はリンクが切れているようだ。もっとも「鹿下絵和歌巻」は、むしろ後に登場するシャーマン・リーが購入をすすめた。その逸話が番組で紹介されていて( フレデリック夫人の話)興味深かった。
「美しきアジアの玉手箱」図録
番組では「烏図屏風」が印象的な効果音(烏がうごめくようなカサカサとした音)をともなって紹介されていた。上記の展覧会の図録には河合政朝氏(美術史)の「烏図屏風」に関する論文が掲載されていて興味深い。烏の「飛鳴宿食(ひみょうしゅくしき)」4つの姿態を描くことは長谷川等伯も語っていて、おそらく室町時代以来の形式だということや、醍醐寺の烏図屏風が狩野派と推察されることから、これも狩野派である可能性があるなど論じられている。
また、論文の注釈にはこの烏図屏風は1936年10月に山中商会から購入されたとある。シャーマン・リーが副館長としてかかわったのは1948年なので、多分、購入をしたのはフラー自身であったということになるのだろうか。
2. チャールズ・フリーア
番組でも紹介されていたように米国スミソニアン協会のアジア美術の美術館であるフリーア美術館のコレクションは、フリーアの遺言により門外不出とのこと。つまり、コレクションの日本での展示はまったく期待できない。俵屋宗達の「雑木林図屏風」は是非とも実物を見てみたいものだが、それには何かの機会に展示がアナウンスされたときにワシントンD.C.まで行くしかないわけだ。
だが、ご存じのように
フリーア美術館のウェブサイト
では、作品を検索してかなり細かいところまで拡大して見ることができるサービスを提供している。Open F|S | Collections と名付けられたこのシステムは2015年1月1日に公開された画期的なもの。
俵屋宗達や尾形光琳などは「宗達」「光琳」などと漢字でも検索できるし、JPEG画像でダウンロードするボタンまで用意されている。
「宗達」で検索できる
作品のビューページ:拡大やダウンロードができる
残念ながらまだ宗達の「雑木林図屏風」は公開されていない。新たな収集コレクションも定期的に追加される予定とのことなので期待したい。
NHK「江戸あばんぎゃるど(前編)」私的まとめ -その1
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宗達と琳派
2018-10-11
前回書いた山種美術館の「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」は、現代デザインへの影響という視点で企画されたもので、2015年のMOA美術館の「光琳アート展」がその元ネタのひとつではあると思います。
実際、「光琳アート展」の図録であり書籍としても一般販売されている
『光琳ART—光琳と現代美術』(角川学芸出版)
を見ると、田中一光の同じJAPAN展のポスターを取り上げています。
「光琳アート展」の2015年は、琳派400年記念祭と題して、東京を始め京都などで大小規模のいくつもの企画展特別展が行われた年で、僕もいくつか回りました。
MOA美術館の「光琳アート」展リーフレットと豪華な無料冊子(20ページ)
根津美術館の「燕子花と紅白梅—光琳デザインの秘密」展リーフレット
その他2015年に開かれた琳派関連展示 相国寺承天閣美術館、山種美術館、京都国立近代美術館
京都国立博物館の「琳派—京を彩る」展の2種類のリーフレットと全国の琳派関連展などを紹介する冊子
ところで、「琳派400年記念祭」の400年というのは、本阿弥光悦が、徳川家康より京都・鷹峯の土地を拝領して光悦村を拓いた元和元年(1615)を琳派誕生の起点としているということだそうです。つまりは光悦と宗達のコラボが琳派はじまりという立場でしょう。
そもそも琳派という「派」があるわけではないことは周知のことと思います。つまり狩野派や円山派のような技術の伝承を積極的に行ってきた英語で言うところのschoolは存在しない。宗達→光琳→抱一がそれぞれ100年ほどの時を経てから、先人の作品を評価し私淑しているだけで、それを一連のものとして現代において学術的に「琳派」と名付けている。
そういったことから、宗達は琳派ではないとする立場もあるわけですが、例えば、古田亮氏の
『俵屋宗達 琳派の祖の真実』(平凡社新書)
などでは、宗達と光琳は根本のところで異なるものだとしています。
その主張として僕なりに例えば部分的に抜粋すると以下のようになります。
・燕子花屏風にみられるようなパターンの繰り返し、デザイン化された作品は宗達にはない。
・光琳はフリーハンドでは得られない造形美、宗達はフリーハンドだからこそ生まれる温かな装飾性
・「画面の奥行きではなく、表面を使っていかに構成美を見せるかという美意識の変換が図られている」
一方で、先述の書籍
『光琳ART—光琳と現代美術』
の玉蟲氏の論文「《光琳観の変遷》拾遺1903−1972」では、酒井抱一が「尾形流」と呼びはじめたのがそもそもはじまりで、その後、展覧会などでの3つの「風神雷神図屏風」のそろい踏みと、その装飾性において一派となった経緯とか、昭和初期において「日本精神の伝統的本然美」(『日本名宝展画集』序言 — 讀賣新聞社 昭和4年)とか「全く倭絵の神髄を闊達な桃山精神をもって復興した」(復興会館陳列展 第十八室解説 昭和13年)などナショナリズムを刺激するような言説のなかで一派とされた経緯が書かれています。
さらに、アートスケープの2015年09月15日号の記事、
「琳派」の現在――流派概念の限界と「琳派」「RIMPA」の可能性 加藤弘子(日本学術振興会特別研究員PD)
の「流派概念の限界」を読むと、さらにその境界線は複雑怪奇でもう僕にはまとめることができません。
そのように宗達を琳派と捉えるべきなのかどうかという議論は様々なところでされているわけですが、いずれにしても、画面構成(空間の間)の独特さという点で、宗達から発したものがあり、それは実際には琳派にかぎらず影響されたきた何かがあると僕は感じます。そのことについて次回以降に書いていこうと思います。
宗達と琳派
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特別展「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」山種美術館
2018-09-14
山種美術館の特別展「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」(2018年7月)へ行きました。リーフレットには「近代·現代の日本画家やデザイナーに受け継がれた琳派の伝統をたどる特別展」と説明があります。
特別展「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」リーフレット
もっとも、このリーフレットにある田中一光の作品は、宗達の「平家納経」の部分的な素材をデザインの中で単に拝借してきているだけで、もっと根本的な琳派の要素である画面構成や手法に影響を受けるというような位置づけではないように思えますので、この作品をあえてとりあえるべきなのかと最初は感じましました。
しかし、「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」の図録の論文を読むと、多分、この作品のことより、田中一光の琳派や宗達に関する言説に注目すべきということなのだなとわかります。
特別展「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」図録
冒頭の山下裕二氏の論文では、田中一光の琳派への想いを綴った文章が引用されています。そして山下氏は琳派はデザインというキーワードで語れるということを紹介しています。
その上で、興味深いのは、この図録の巻末あたりで引用されている田中一光の文章(朝日百科「宗達とデザイン」からの引用)です。
しかし最近になって、宗達という人の作品を改めて眺め直すと、当然とはいえ、デザインという一面ではとらえがたい、厚い壁にぶつかるのである。拡大された琳派という概念ならばともかく、宗達の場合は、どの時代のどの画家よりも、日本美術の本質にかかわる問題をもっとも濃厚にもっているように思われてくるのである。(「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」図録80ページの中の引用より)
宗達を元とする琳派を現代デザインの原型としてみるという視点がある一方で、宗達自身の作品からはデザイン以上の深い何かを見るべきだと田中一光氏が言っているということがわかります。
たとえば、リーフレットの下に掲載されている「槙楓図」などは、明らかに写実ではない「意図された構成」が見て取れます。それは端的には「デザイン的である」ということであり、一方、その意図された構成とは、緑の槙の枝の後ろにわずかに見え隠れする赤い楓を配置し、楓の枝が左へわずかに流れ出てそこには空いた空間が配されている、というもので、そこには何か日本独特の感性があるように思われてきます。
この特別展ではそのようなことに気づかされました。
特別展「琳派 — 俵屋宗達から田中一光へ」山種美術館
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宗達にデザイン感覚の現代的原型を見る
2018-07-17
数年前のことになりますが、酒井抱一生誕250年ということで、1月から3月にかけて東京の各所で特別展がありました。酒井抱一は現在のアカデミック的には「琳派」に属すると分類されており、これは尾形光琳がそのスタイルを固めたのでそう呼ばれているのですが、その光琳の先駆けとして俵屋宗達が位置づけられています。
もっとも、よく知られているように、宗達、光琳、抱一には師弟関係はなく、それぞれが先達の作品を勝手に見つけて私淑して手法を独自に学んでいる事実があることから、後の世になって、多分大正時代に「琳派」と呼んで系統づけられたということです。そんなわけで、収集家の方もひとつの流れとしてこれを受け止めており、酒井抱一の生誕記念展示では、先達と位置づけられている宗達や光琳の作品も見ることができるわけです。実際には、宗達は江戸時代前期の京都の人で、抱一は江戸時代後期の江戸の人。200年くらいの隔たりがあります。
さて、光悦と宗達による金銀泥下絵の和歌巻にはいくつかのシリーズ作品があります。畠山記念館では「金銀泥薄下絵古今和歌巻」を見ることができました。この下絵は宗達本人なのか弟子のものかどうかは不明ですが、本阿弥光悦の書で、彼のディレクションのもとに作成された、とてもシンプルでかっこいい作品です。
畠山記念館には、その他に「金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻 」(重要文化財)があり、出光美術館には「蓮下絵百人一首和歌巻」の断簡(後の世の人が掛け軸などにするために長い巻物の部分を切り取ったもの)や、「月に萩・蔦下絵古今和歌巻」「花卉摺絵(かきすりえ)古今和歌巻」といったものがあると図録には載っていました。これらは実際には見ることはできませんでした。
既に見ていたのは、神戸市博物館に来た「鹿下絵和歌巻」(シアトル美術館蔵)と京都国立博物館の「日蓮展」で展示されていた「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(京都国立博物館蔵)の一部分でした。
いずれも、一種のグラフィックデザイン的であるという点でとても面白いと僕は感じます。例えば、同じように装飾絵画としての主流であった狩野派の作品とは明らかに違っています。その違いとはなにかというと、例えば、画面構成におけるリズム感であり、リズムを作り出すために空間の切り出し方や物体の抽象化(デフォルメ)についてあえて思い切ったことをしています。そこが絵画というよりグラフィックデザイン的であるゆえんだと思います。
下絵和歌巻ではないですが、それを端的に示しているのが、宗達の「蔦の細道図屏風」だと思います。画面の背景は緑の丘のように見えるのですが、その手前で画面の左上から右下に掛けて空間が裂けて開けているようになって、その中に蔦が向こう側の空間を垣間見るような感じで垂れ下がっている、みたいな構成になっています。もはやSF的ですらあります。
そもそも、グラフィックデザインというものは現代的な発想であると僕は思い込んでしまっているのかもしれません。だから、あの時代にこんなものが!と思って面白いと感じてしまうのですが、実際には、人間のデザイン発想は近代的な部分では少なくとも数百年前とはそれほど変わっていないのかもしれません。変わったのは、それを表現する技術やそれを生み出す組織力に過ぎないというわけです。例えばこれから千年もすれば、僕らは江戸時代前期、あるいは中世くらいの時代の人間と同じくくりの中で分類されるのかもしれません。ここら辺の人間はほぼ同時代人というわけです。
「金銀泥四季草花下絵古今集和歌巻 」と「月に萩・蔦下絵古今和歌巻」を図録でみると、前者はその冒頭がすごい竹の幹のクローズアップで始まっており、後者は、満月を表すすごく大きな銀の円が冒頭でいきなりどーんと現れ、そして四季の草木や月に照らされた萩へと巻物の絵がまるでカメラがパンしていくかのような構成になっています。現代の映画やアニメーションででもありそうな構成だと感心します。でも、それは現代的であるというより、実際には、ひとつのデザイン的なあるいは音楽的な物語構成について江戸から現代にかけての近代人(もしかすると中世も含む)が持つ原型みたいなものなのかもしれないと思うのでした。逆にいうと、宗達の作品にはそういうことを見いだせる要素がいくつもあるように思います。そういうところが僕にとっては、宗達を興味深いと思えるひとつの要因です。
さてそんなわけで、これから、デザインと呼んでいる感覚も、実はもしかすると近世や中世以降人の感覚はそれほど変わっていないという仮説で、その連綿と続く感性の流れについてここに書いていきたいと思います。
宗達にデザイン感覚の現代的原型を見る
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